First Creation: 2005/08/08
Last Update: 2006/07/28
今回は近況報告・・・って誰にだ。まあいい。
先日のことだが、私の所属する部署が解体された。もっともらし理由はいくつもあるのだろうが、結局のところ、行き着く先は経済的な障害の一言に尽きるのだろう。
私は落ち込み、悲嘆に暮れたかと言えばさにあらず。せいせいした気分で次の部署に移って行った。おめでとう>私。さあ、祝杯を挙げよう。
今の部署に移ってから比較的規則正しい生活が続いている。朝は 7:30 に目覚め、優雅にシャワー。朝食はとらずに出勤。タイムカードは余裕をもって 5分前・・・じゃないこともあるが、魔法のようにぎりぎりセーフ。何故か遅刻はしない。
13:00 に最近覚えたビストロwaya でランチタイム。量、味に加え、良心的な価格がお気に入りだ。国分町辺りで働いていると、いつの間にか財布からお金が消えていて、レジで青ざめることがままある。安くて美味い店は歓迎するところだ。
そしてここが重要なところで、なんと定時に帰宅できてしまう。残業 40h、最悪 100h という悪夢は終わったのである。たまに趣味の雑貨屋巡りをして帰るゆとりもあろうかというもの。
七夕祭りの最終日。その日は珍しく 60秒もの残業をこなした私は、雨が降っていたため、バイクを乗り捨て帰宅した。
帰りの電車の中で、印象的な女の娘を見かけた。頭頂部から前髪をドレッドに、それ以外の髪はストレートにして後ろに流している女の娘だった。それ自体はなんてことはない。しかし彼女はものすごい金髪で、ふわっとボリュームがある髪形をしているものだから、まるでライオンのたてがみみたいに見えた。
ヘア・スタイルに合わせた、露出度が多めの派手な服装。キツメのアイシャドウさえ何とかすれば(つまり上手に化粧をすれば)、芸能人と言われても私は信じた。それほどのインパクトだった。
日常生活の中でこれほどの逸材にはお目にかかったことがない。イービーンズの 2F より下か、FORUS の 6F より上の階にはいたような気はするが。
芸能人は普通の人間とは棲息域が異なるはずだ。その証拠に、普段、自宅周辺はおろか、街中ですら彼らを見かける機会は少ない。稀にではあるが、そういうことがあれば、たちまち熱力学の第二法則に反する現象を目撃することができるだろう。もしくは「お金はさびしがり屋だから仲間がたくさんいるところに集まる」の類だろうか。
(たぶん)芸能人でこそないが、普通を超越してしまった彼女が、普通のサラリーマンに混って電車に乗っている光景を見て、「普通って何だろう」と考えさせられた。
普通の人間というのは、「周りを見渡した時に、その人物に共通点を見出せる人物がいる」ことが条件ではないかと思う。
その人に似ている人間と言ったって、必ずしも現時点のこととは限らない。その人は、過去に同級生だった人物に似ているかも知れないし、文字どおり街中を見渡した時に偶然見つけた人物に似ていたのかもしれない。
ということは、普通でない人々というのは、普段見かけないような格好をした人間ということになる。もちろんこれは服装だけに限らず、体格や美醜にも当てはまる。
何を当たり前のことを、と思うだろうか?
ならば考え方の「普通」とはどういったものなのだろうか?
比較的平均値を求めやすい「容姿」に対し、「思考」ではそれが難しい。思考に関するアンケートをとったとしとしよう。そのアンケートが回答者の本心なのか、常識に照らし合わせただけの自己保身の回答なのか、他人には判別することが難しい。というより、当人ですら、無意識に他人に合わせたことに気づいていない可能性がある。
「君って変わってるよね」と口にする人物は、実は自分の基準が他人と違っているかもしれないのだ。自分の基準からは外れていても、世間一般の普通許容内であるケースは少なくないに違いない。こうしてみると、思考の普通を決めることはとても難しいことだ。
だが、自分を普通という鎖で縛り上げる必要は何もない。
多様な種類に富んだ生態系は、進化の可能性を広げるという。地球上に一種類の生物しか存在しなければ、長期的な目で見たときに地球は荒廃した地になっていただろう。たとえ地球上がその種で埋め尽くされていたとしても、豊かという表現からは遠いはずだ。
先カンブリア紀の特異な生物群、それらとは門を異にするが、やはり多様な生物が存在したカンブリア紀。これらの生物的背景があったから、現在の地球があり得たのだ。
今から 6億年も前の先カンブリア紀には、現在のものとは異なる(つまり先祖を異にする)軟体動物が存在した。これらはエディアカラ動物群と呼ばれ、カンブリア紀のごく初期に消えた。
先カンブリア紀に栄えたエディアカラ動物群と入れ替わるように、カンブリア紀の中期には非常に多様な生物が出現する。これをバージェス動物群と呼ぶ。
カンブリア紀(5億数千万年前)に突如として、今日見られる動物の「門」が出そろった。先カンブリア時代には数十しかない生物群が、突如 1万種ほどにも達した現象を指して、カンブリア・エクスプロージョンと呼ぶ。
34億6000万年以前のバクテリアの化石が発見される
31億年前の石灰藻にちかい単細胞植物の化石が発見される
19億年前の菌類と藻類、糸状バクテリア、褐緑藻類などの化石が発見される
クラゲ状の「スプッリギナ」
楕円形をしたパンケーキ状の「ディキンソニア」
これらは、 進化の途中で滅びた(逆にミミズのような刺胞動物の先祖という説も)
有殻微小動物群は、大きくても数mmの大きさ
三葉虫は、このころには登場していたらしい
奇妙なエビ「アノマロカリス」
幻覚を意味する「ハルキゲニア」
五つ目の「オットイア」
バージェス動物群で唯一の脊索動物「ピカイア」
このように、『多様性』は優れた能力を作り出す可能性を秘めている。その法則は考え方にも当てはまるはずだ。
人間の思考だって一パターンしかなければ、今日の私は PC を使って日記を書くなんてことはしていない。たぶん、世の中はエジプト文明かそれ以前の文明レベルで停滞していて、PCどころか電気もガスもない生活で、人類は車輪を発明する必要を感じず、日々の糧を得るために獣を狩り、洞窟の中でネズミと果て無き死闘を演じていたか、とっくに血統を滅ぼしていただろう。
ちなみに、その頃の文明が、現代に比べて劣っていたとは思わない。ただし、知識の蓄積と独占、相反するようだが、同時に知識の共有という点に関しては、昔に比べて現在は比較できないくらい進んでいると思っている。
そしてこの PC という存在も、1945年のノイマン型コンピュータ登場以降、すさまじい勢いで発達を遂げている。これだって、何人もの科学者や商人が、様々な方向から試行錯誤と利益を追求した結果なのである。
ならば、十人十色とは言わない、せめて十人五色の考えは、人類の進化を約束させるものだと、私は考えたい。
自然体で普通の思考をする人間。周囲に溶け込みたいがために自分を押し殺し、自分や周りを枠にはめたがる人間。枠を破ることに生きがいを感じる人間もいれば、自然に行動したら個性を極めてしまった人間もいる。普通の人間だって、個性的な人間に対しての基準となっている。普通の人間がいなければ、個性は存在し得ない。普通の人間がいて初めて個性は存在するのである。
つまり、私が変わり者であるという不本意な風評は必ずしも正当な評価とは言えないのではないだろうか。例え私が人よりちょっと風変わりな考え方をしたとしても、人類の将来性に貢献するためにあえてそうしているのだと、私は胸を張ることができる。つまり、だ。私に対して変って言ってはいけない。