First Creation: 2004/07/19
Last Update: 2006/01/07
実家での出来事である。
朝早く、叔父は別れを告げて仕事に行った。私はその後に二度寝をしてしまい、10時まで惰眠を貪った。
目覚めてからシャワーを浴びる。風呂上がりに扇風機を回しながら、柔軟、スクワットを軽くこなした。かなり身体が鈍っている。家に帰ったら鍛え直さねば。
完全に目が覚めると、後片付けに取り掛かった。飛ぶ鳥跡を濁さず。自分の痕跡を残さない程度に洗濯し、食器を洗う。さあ、出発だ。
近くの駅からは実家方向の路線が走っていないので、中継駅に向かう。中継駅に着いたのが 14時で、そこからお土産を買って、特急券を買ったのが 14:14。発車は 14:15 である。改札口のおっさんに「急いでくださ〜い」と SUPER BELL"Z ばりに注意されてしまう。
「駆け込み乗車はお止めください」と言われてみたいところだ。
実家に着くと、どういった理由でかは知らないが、某宗教の某集会所へ参加するはめになっていた。
私は死んだ母が世話になった寺だから参加しても良いと言ったつもりだったが、どうやらそうではなかったらしい。
知りたくもなかったが、某宗教は仏教の一派で密教に当たり空海の時代から云々……どうのこうので、月会費 200円というから金儲けの宗教ではないのかもしれないが、はっきり言う。そんなのはオレ以外のやつに勧めてやれ。
一度だけでも参加して欲しいと言うのでしぶしぶ OK したがこれっきりだからな。一難去ったと思いきや、入会費や一年分の月会費を払ってあげるから入会しないかと親父が入会申込書を差し出してきたが、きっぱり断った。
私は神を信じる気にはなれない。正確にいうならば、神、もしくは精霊や妖精、日本人には馴染み深い八百万の神々など「もしかしたら不思議な存在はあるかもしれない」とは思っていても、無条件にそれを崇める気にはなれないのだ。崇める理由がない。
例えるならば車や雷だ。昔の人に車を見せたら、こんなに速く走れる乗り物に驚き、神として祭ったかもしれない。科学の片鱗すらなかった時代の間は、雷の轟音や破壊力に驚き、何か大いなる存在を感じ、畏れたかもしれない。
だが、こんな天邪鬼な私が彼らの立場だったとしても、畏れはするかもしれないが、車は速い乗り物として扱い、雷は危険な現象としか思わなかったのではないか。無論、私が彼らのような立場に立つことはないのだから、こんな仮定は無意味かもしれない。だが、そこで思考停止しては、小汚い髭もじゃの親父を崇拝する信者と同等の思考回路である。
神の教えを説く宗教があったら、それを自分の言葉で解釈し、自分の掟に反しないかどうか、実践するに足る代物かどうかを考るのだ。自分の内なる掟に反する教えであれば、信仰する必要はない。その教えを実践することで皆幸せになる? 余計なお世話である。幸せになれるなら自分たちだけでなってくれ。ただ諭されたから従うのではなく、あらゆる可能性を考えた上で「信じる」かどうかを決めなければ、宗教家にとってカモにされるだけだと私は考える。
これは選挙にも言えることで、国の政策を決定する重大な選挙という行事を放棄しておきながら、消費税が上がったからといって文句を言う資格はない。何とも愚かしいことではないか。政治家は選挙権を放棄する人間を心から喜んでいるに違いない。
かく言う私は選挙に数回しか行っていない・・・ォィォィ・・・
でも私は国には全く期待していないから、年金は払っているけど受け取れないものと決めつけているし、国が崩壊したところで一人で暮らしていける根拠のない自信があるからかまわないのだ。
話がそれた。何を言いたかったかというと、せっかく頭があるんだから考えることだ。調べることだ。あらゆる可能性を考るなんて事はシャーロック・ホームズでもなければ難しいのだから、できるだけ多くの可能性を考るだけでも随分違ってくるはずだ。こう書くと「なーんだ、そんな当たり前のこと」と思う人が多いだろうが、考ることをせず、もっともらしい言葉を鵜呑みにする善良な人々がこの世の中には多すぎる。
私や貴方にとって当たり前の思考が、信者にとっては「なんと不敬な、恐ろしい!」になってまうのだ。
集会の前に、妹に服を買ってやった。もう 23 なんだからもうちょっとまともな服装をしろ、と言ったのに、買う服はカーゴ系のやつばかりだ。動き安さ第一らしい。そんな服でも 2万を越えた……私としては淑女風か大人しめのギャル風がよかったのだが、まあ似合うまいな。外見は二十歳越えてるようには見えないのだから。童顔ではなく、子供である。
集会に行ってきた。これでも礼儀正しい方だから、玄関に立って挨拶する人には帽子を脱いで会釈したし、皆が集まっているところでは正座した。集会は、宗派を興した人が亡くなって何年目だかの式典を衛星中継で放送していて、集まった人はそれを見ているのである。テレビの中の坊さんが読経していて、ときおり参加者も読経に参加する。初めての私には、何を唱えているのかさっぱりである。
スペースチャンネル5 か、と思い至った。相手の踊り(音楽)に合わせて、プレイヤーは同じ動作をする。原理は同じだ。相手の言葉を自分がそっくりそのまま繰り返すことで、皆と一体感を感じているのだろう。そして間違いなく繰り返せるようになると、陶酔感を感じるようになる。何も見ずに唱えられるようになれば、優越感はいや増す。よく考えてある。
私にとっては、参加した感想は、足がしびれる、以上のものではなかったが。
帰りは一人でぶらつきたいと言って妹と別れた。
三角形の有名な建物を撮ったり、ベイブリッジみたいなやつを撮ったりしていると、英語圏の住人が声を掛けてきた。
例によって「神を信じますか?」だ。時刻は 21時過ぎ。田舎だから店などはとっくに閉まっているし、することもない。暇なので相手をしてやった。
「神を信じますか?」
「いるかもしれない。ただし、いると思うということと、信じることは別だと思う」
「どんな姿をしていると思いますか?」
「光のようなカンジ」ダンテの描画だ。
「預言者の事は知っていますか?」
「数人は。ヨハネやノア」
「よく知ってますね」
「本の受け売り」
「キリストも預言者です。神は人間のことを大事に思っていたので、預言者を通して御身の言葉を伝えようとされました。ただいつの世も預言者は迫害されていたわけですが。もし預言者がいたとしたら、彼の言葉を知りたいと思いますか?」
なるほど、そういう論法か。預言者を信じないのは、過去の愚かな人々と同じだと思わせ、信じさせる方向へ誘導するのか。ちなみに、このとき私は預言者の役割を始めて知った。単に目立ちたがり屋かと思っていたのだが。
「預言者の言葉があるのなら知りたいとは思う」
「彼の人はジョセフ・スミス。天使の導きによりモルモン書を掘り出し、翻訳に成功しました。この書には事実が書かれてあります」
一字一句違うというわけではないが、その時に言った三つの言葉は、確かこうだ。
「(本の存在を)知ること。読むこと。ただそれだけではこの本が真実であるかどうかは分かりません。最後に祈ることです」
私は思う。祈って物事が解決するなら、島原の乱のような惨劇はなかった。別に島原に限ったことではない。私ならば、祈るなどという無駄な時間を費やすより先に、その本に書かれてあることが真実かどうか、一つ一つ検証する。祈るのは最期の瞬間だけでいい。
私はその書はどこに行けば手に入るかと聞いてみた。「図書館にありますか? 興味があるんですが」
無論、私の興味とは、ありがたい教えを乞うことではなく、自分で調べることにある。
「それは図書館には置いてないんです。我々が無料でお配りしているんです」
「そうですか、残念」
いかにも興味がありそうな声を出したのが効いたとみえ、モルモン書をプレゼントしてくれた。失われた時間に対する代価は支払われた訳だ。これ以上相手をする理由はない。
「仙台にも支部はありますから連絡してください。これが連絡先です」
渡された紙の表面には英会話と書いてあった。宗教か英会話か、どっちの勧誘なんだと興ざめする思いだった。深読みすれば、宗教だけではやっていけないので、英会話を資金源の一部にしている、というところだろうか。連絡先を聞かれたが断って家に戻った。
仏壇にお供えをして、本日のイベントは終了である。
振り返るとやたらと宗教づいている 1日だった。とんだ法難だ。ちょっと違う気がする・・・
パンフによれば、モルモン書は 80カ国語以上に翻訳されていて、それなりに歴史もあるらしい。まあ時間があったら調べることにしようか。